come and see

先日id:apesnotmonkeys氏のブログを読んでいましたら、こちらの記事で黙示録6:1において"come and see"と"come"という二つの英訳が存在していることが指摘されていました。聖書については、わたしは信仰もありませんし、聖書学についても全くの無知なのですが、たまたまNestle Alandのギリシア語版新約聖書が手元にありましたので、少し調べてみることにしました。二つほどコメントを付け、それに対するid:apesnotmonkeysさんの応答を受けてさらに調べてみると、個人的には結構おもしろかったので、簡単にまとめておくことにしました。独立したエントリとしたのは、再度コメントとするには長くなりすぎたことも理由の一つです。

話に入る前にNestle Alandのギリシア語版新約聖書について簡単に述べておきます。この本は新約聖書ギリシア語で読むときには定番のテクストとして使われます。論文や注釈書などに引用される場合も底本となっていることが多いですし、岩波書店から出ている新約聖書の翻訳はこれを底本としています。一家に一冊あると、今回の場合のように、「あれ、オリジナルはどうなっているのかな?」と思った時に、さっと参照できて便利です。ドイツのミュンスター大学にある研究所が出しているテクストで、NestleとAlandというのは、この研究所の創立と発展に尽力した二人の研究者の名前です。オンラインでは、以下のURLから参照できるのですが、この本の最も重要なコンテンツであるテクスト批判に関する注が落ちています。現在27版が最新版として流通しており、Amazonだと3,500円くらいで買えるようです。わたしは、確か、大学時代に聖書の研究やってる人と一緒に原典をちょっと読んでみようってことで輪読した時に購入したんじゃないかと思います。

http://www.biblekeeper.com/Greek-Nestle-Aland/index.php

なぜテクスト批判の部分が重要かという点については、後ほど本文と絡めてお話します。

Nestle Alandの該当個所を参照すると、いずれの場合にも、本文にはerkhou "come"とのみ書かれています。前後の文脈を見ると以下のようになります。

kai ekousa henos ek ton tessaron zoon logontos hos phone brontes erkhou 2. kai eidon kai idou hippos leukos

そしてわたしは聞いた。四匹の獣のうちの一匹が雷のような声で言うのを「来い」と。そして私は見た。すると見よ、白い馬である。

ここのところ、本文のerkhouの右上にTのようなマークが付けられており、その次のkaiの左上には□が、eidonの左上には\という記号が付されています(下図参照*1のこと)。これらの記号の意味については、Nestle Alandの最初に解説されています。それを参照しつつ本文下の注(アパラトゥスと言います)を見ると、T kai ide (アレフ) 2329 2344 Mk it vgcl syph.h**と記されています。これは、アレフで表記される重要な写本*2と2329および2344と呼ばれる小文字写本*3と多くのビサンチン系の写本*4そしてVulgata以前の古いラテン語訳聖書*5とVulgata*6およびシリア語訳聖書*7において、erkhouの後のTの位置にkai ideが挿入されていることをあらわします。また、kai eidonについては、2329,2351などの写本でkai eidonが削除されていることが分かります。つまり、以下のような複数の異なる読みがここには存在することになります。

kai ekousa henos ek ton tessaron zoon logontos hos phone brontes erkhou kai ide 2. kai idou hippos leukos

kai ekousa henos ek ton tessaron zoon logontos hos phone brontes erkhou kai ide 2. kai idon kai idou hippos leukos

そしてわたしは聞いた。四匹の獣のうちの一匹が雷のような声で言うのを「来て見よ」と。すると見よ、白い馬である。

そしてわたしは聞いた。四匹の獣のうちの一匹が雷のような声で言うのを「来て見よ」と。わたしは見た。すると見よ、白い馬である。

欽定訳およびそれ以前のウィクリフによる訳"come and se"では、"kai ide"の挿入された本文がとられていることになります。ウィクリフの訳はVulgataを底本とした訳なのでその影響でしょう。欽定訳については、エラスムスによるギリシア語版からの訳であるとされているので、そのエラスムスの版がkai ideが挿入された写本を底本とした可能性があります。

すると次に問題になるのは、なぜこのような削除と挿入が行われたかです。写本を筆写する際には様々な理由から筆写のエラーが生じますし、意図的な編集も行われます。このため、あるテクストが確実にその作者が書き残したとされる資料であると判断できない場合には、かならず文献批判が行われ、様々な理由によって異同が生じた写本の相互関係を写本の持つ様々な特徴から判断して系統づけ、より真正な著者自身によるものに近いテクストを編集する作業が行われます。ここでいう様々な特徴には、テクストそれ自身だけではなく、文章がどのような書体で記されているか、筆写にどのような材料が使われているか、紙の材質は何かから始まって虫食いの位置や最近では科学的な年代測定法までが使用されます。新約聖書の場合、残されている写本は約3,000以上になりますが、主要な写本の系統は、アレクサンドリア型、ビサンチン型、西方型、カエサリオン型の四つの系統にまとめられるようです。ただし黙示録の写本系統はその他の新約聖書の諸書の系統とはかなり異なるそうで、単純にこれらの型にあてはめることはできないとのことです((比較的新しい写本のほとんどがビサンチン型で、古い写本のいくつかがアレクサンドリア型らしい))。Nestle-Alandでも黙示録については、写本について他の福音書や書簡とは異なる記号が用いられています。先ほど出てきた「多くのビサンチンの写本で」をあらわすMの右上にKが付された記号がそれです。これ以外にもいくつかの記号が黙示録のみに使用されます。

また同じように問題になるのが、この「来た」のが、あるいは「来て見た」のが誰であるかという問いです。これらの問いについては、わたしたちは注釈書を参照することになります。注釈書は、あるテクストに対する様々な読み方や現代人にはわかりにくい背景、特殊な用語などを解説した書籍で、営々と行われてきた研究の集大成とでもいうべきものなので、素人はとりあえずそこから外れないような読みをすることになります。このあたりは、ほかの古いテクストでもあまり変わりません。オンラインで参照できる黙示録の注釈書が二つありましたので、そこから該当個所を抜き出してみます。

"A commentary on the revelation of John" George Eldon Ladd p.95には以下のように書かれています。この本はここからGoogle Books経由で参照することができました。1922年発行のやや古い本です。

"Many copyists of the Greek manuscripts understood this to be a summons to John to come and behold the sequel to the breaking of the seal, and so they added the words "and see." The AV follows this inaccurate rendering. However, the best Greek text contain only the summons, "come." The late variants are also found in 3, 5, 7.
A different interpretation is that the admonition "Come" is parallel to the same summons in 22:17, "The spirit and the Bride say, 'come.' And let him who hears say, 'come.'" Thus interpreted, it is a repeated summons for Christ to come in power and victory. This view is based on the assumption that the four living creatures represent the powers of nature, which is yearning for the final redemption to be accomplished at the return of the Lord (Rom. 8:22), and so nature is represented as calling upon Christ to come. However, such a summons in this context of the breaking of the first four seal is difficult. The most natural understanding of the repeated summons, "come" is that the four living creature call forth the four horsemen."

多くのギリシア人写本家は、これをヨハネに対する召喚と考えていたのではないか、そして、彼は封印を解いた成り行きを見守れと命じられたのではないかと考えて"and see"を付け加えたのだが、最も良いテクストにおいては"come"としか書かれていない、と注釈には書かれています。また、この"come"についても、4匹の馬ではなく、キリスト自身が呼ばれたのではないかという意見があることが述べられています。ただし、著者はそれらを退け、単純に"come"と呼ばれることによってあらわれるのは4匹の馬とその乗り手であるとしています。

もう一つはGregory K. Bealeの"The book of Revelation: a commentary on the Greek text”です。こちらは1999年に発行された比較的新しい本で、

"Some mss*8. add the imperative "behold" (ide) after the imperative "come" so that the command is not addressed to the horseman but to John himself as an invitation to be attentive to the next vision. Nowhere else in the book is John addressed with a form of erkhomai ("come"). The added imperative is an intentional alternation arising from the theological difficulty of such devilish characters as the four horsemen being directly commanded by God to induce such terrible sufferings on humankind and the same textual problem arises in each case. Therefore, the single imperative is the more difficult and consequently the better reading and it is also supported by both a significant number of mss. and the best mss.
Furthermore, while it is possible that KAIEIDON ("and I saw") in v2a could have been accidentally omitted because of a scribe’s eye skipping to the similar KAIIDOU ("and behold"), it is highly improbable that KAIEIDON ("and I saw") could unintentionally have been misread as the imperative phrase KAIIDE ("and behold"). The addition of the same second imperative in vv 3, 5, and 7 is to be explained in the same way, as a secondary insertion systematically read into the text for consistency. Modern commentators have also tried to avoid relating the divine command "come" to the evil riders by seeing the imperative as parallel to the same imperative in 22:17, where the church urges Christ to return. But this would be very intrusive in the present context, although some of these commentators attempt to view 6:9-11 and 6:12-17 as continuing the theme of the call for Christ to come and consummate history."

こちらでもいくつかの写本で"and see"という命令が付け加えられた結果、"come and see"がという命令が馬の乗り手ではなくヨハネに対するものとなること、しかし、ここ以外ではヨハネが"come"と命じられている箇所がないことについて触れています。またさらにこの命令のテクストへの付加は意図的に行われたもので、四人の馬の乗り手が神自身の直接の命令によって人に災いをもたらすという悪魔的な特徴を持っていることに対して生じる神学的な困難からそれが生じていることについて述べています。また、上の注釈と同様に"come"で呼ばれるのはキリストであるという解釈もあることが示されていますが、その解釈は著者によって退けられています。

ということで、この箇所をなるべく本来の形に近い形で読むならば、雷のような声は”来い”とだけ呼ばわったのであり、その呼び声に応じてやって来たのは災いをもたらす4匹の馬とその乗り手である(まず白いのから)という風に読むべきだということになるでしょう。

以下余談。聖書の写本にテクストの異同があって、どれを採るかが問題となった場合には、
1.短いほうがよい
2.難しいほうがよい
という原則に従うそうです。と田村健三著「書物としての新約聖書」に書いてありました。上の注釈にも、"Therefore, the single imperative is the more difficult and consequently the better reading"とあります。

以上素人講釈でした。んー、やっぱり学問的正しさはエンタテイメントの前に敗北するのか(笑)冒頭に申しあげたようにわたしは聖書学に関しては全くの素人ですが(だからこそ、かな)、この原文で30文字ほどのパッセージに対して、ちょっとウェブ上で調べただけでこれだけの研究上の蓄積を利用できる聖書学という学と、それを積み上げてきた学者たちの貢献には素直に頭を垂れたいと思います。あと色々言われるけどGoogle Booksってすごいんじゃなかろうか。

いや、Google scholarとかCiNiiとかWebcatで論文調べればもっといろいろと面白い話が出てくるんだろうけど、それ始めると泥沼だし、さすがにやめようと思いました(笑)

*1:Nestle-Aland p.643より引用

*2:大文字で記されているので大文字写本と呼ばれ、より古い写本と考えられています

*3:小文字で記されたより新しい写本

*4:Mの右上にKという記号で示されています

*5:itで表記

*6:vgで表記。clは写本の差異をあらわす

*7:syで表記。ph,h**は写本の差異をあらわす

*8:manuscripts

その3 昭和期の動向

 大正一〇年に設置された臨時国語調査会は、その後紆余曲折を経つつ日本の国語政策における中心であり続けた。日本が日中戦争からアジア・太平洋戦争へと戦線を拡大し、占領地が拡大していく中で、占領地住民への日本語教育の問題が、これまでとは比較にならない規模で問題となる。そうした中で、文法や語彙などを大幅に簡易化した日本語を、占領地における日本語教育で教授すべきであるという議論が登場する。またこの時期、陸軍は兵補や後には兵士として多くの占領地住民を動員しており、彼らに対する日本語教育が大きな負担になったことから、日本語の簡易化に関する研究を進めた。

 大正一〇年(1921)に、臨時国語調査会が設置され、「常用漢字表」、「字体整理案」などの漢字制限と漢字字体の整理に関する事項が発表された。また、難しい漢語の言い換えについては「漢語整理案」を、仮名遣いについては表音的仮名遣いを原則とした「仮名遣改定案」を発表している。昭和九年(1934)年には国語審議会が設置され、再度漢字制限と漢字字体の整理、および仮名遣の改定が審議された。昭和一六年(1941)頃には、陸軍と企画院において専門用語の整備が行われている。陸軍による用語の整備は、外来語を多用し漢字制限を行うなどわかりやすさを重視した実用的なものであり、後者の用語整備は敗戦後学術研究会による学術用語の整備へとつながる。

 この時期、従来の台湾と朝鮮に加え、第一次世界大戦後、南洋諸島委任統治し、満州事変以降アジア各地を占領するに至った日本は、急速に拡大した占領地において日本語教育を行う必要に迫られた。このとき日本語教育の現場からは、「日本語が複雑であり、一寸やそつとではなかなかわかり難い言葉が余りに多くて」*1という報告がなされ、国語学者保科孝一も「目下急速に国語・国字を合理的に整理することがもつとも緊要であつて」、「現状のままに放任して置いては日本語の海外普及が意のごとくならぬのは当然である」と述べている。*2

 こうした議論が起こった昭和一六年(1941)ごろから「輸出用日本語」についての議論が盛んになる。たとえば櫻田常久は、「速かに輸出向日本語を作れ」と主張した。*3彼は私案の中で、代名詞の整理、語尾の統一、左横書きなどの提案を行い、また、石黒修は「基礎日本語」*4を外国人のために制定し普及するという提案を行っている。だが、これらの提案は、当時支配的であった日本語を国語として神聖視する思潮*5を支持する論者からの強硬な反対を受け、実現しなかった。

*1:石 (2005) p.192.

*2:上掲書p.193.

*3:上掲書p.206.

*4:昭和8年(1933)に土居光知がOgdenのBasic Englishを参考にして、「基礎日本語」とし1100語の語彙を選び出している。

*5:国語を教えることを通じて占領地住民に帝国臣民としての精神を涵養せしめるという意見が大真面目に論じられていた

その2 明治後期から大正期にかけての動向

 この時代、日本語の簡約化に大きな影響を及ぼしたのは、日本が日清戦争日露戦争(およびその後の韓国併合)の結果、海外に植民地を獲得したことと、日清戦争に敗戦した清国から多くの留学生を受け入れたことによって、外国人に対する日本語教育の需要が発生したことだった。しかし、後に述べるように、日本語の記述文法すらこの時点では存在せず、日本語教育はかなり泥沼的に始められた。にもかかわらず、教育者たちの努力によって、程度の高い教科書が(わかりやすさはまた別だが)既にこの時代に作成されている。また、台湾や朝鮮半島における日本語教育が様々な問題をはらんでいたことは、安田敏朗氏などの著作によって知られている。

 明治三五年(1902)に発足した国語調査委員会は、漢字制限や方言調査を元にした標準語の語法の研究などの注目すべき調査結果を出すが、大正二年(1913)に廃止される。後者の研究は、明治三九年(1906)に「口語法調査報告書」として出版された後*1に、委員会の廃止後「口語法」、「口語法別記」として出版されたが、「口語法別記」において、「台湾朝鮮が、御国の内に入つて、其土人を御国の人に化するようにするにわ(ママ)、御国の口語を教え込むのが一番である」とされていることは注目されるべきである。

 この明治三〇年代から大正期にかけては、清国や朝鮮からの留学生を大量に受け入れていた時期であり*2、宏文学院などの私的教育機関や、早稲田大学清国留学生部などの大学の設置した教育機関で留学生に対する日本語教育が行われた。ここで行われた教育には、「日語語法」や「日語全璧」、「日語入門」などの学習用教材が用いられた。吉岡英幸による一連の研究*3によれば、これらの学習用教材に含まれる日本語の文法事項は、平均して、現在日本語教育で学習される初級文法事項の七割が含まれている。このことは吉岡が言うように、「日本語教育における基本的な文法学習項目は何かという選択基準がかなり明確に意識されていたと見ることができる。」*4ただし、これらの教材の多くは、前述の国語調査委員会の標準語に関する報告が出る前に編纂が行われており、何を日本語の標準語として採用するかについて著者たちの間で議論が生じ、結果的に標準語における文型とは異なる文型も採用されている。*5

 また、この時期は、日本が日清戦争日露戦争に勝利した結果、台湾及び朝鮮半島の植民地化を開始した時期にもあたる。台湾及び朝鮮半島では、日本語が「国語」として公教育の体系に組み込まれ、公学校などの教育機関で用いられる日本語教科書の編纂が行われた。

*1:これ以降、口語法の教本の出版が盛んになった。これらの教本には、自身も国語調査委員会の委員であった保科孝一の「日本口語法」などがある。

*2:このほかに外国人宣教師に対する日本語教育も行われていたが、数としては少ない。

*3:吉岡 (2003), 吉田 (2002B)及び吉田 (2002A).

*4:吉岡(2003) p.35.

*5:宏文学院で刊行された「日本語教科書」の場合については、酒井(2007)を参照のこと。

その1 明治時代の簡約化あるいは日本語の改良

明治時代に日本が西欧型の国民国家への脱却を図ろうとした際に直面した問題の一つが、日本語の「改良」の問題であった。この「改良」は、大まかに言って、

  • 仮名遣いの統一
  • 漢字の制限・廃止
  • 標準語の制定

の三本の柱からなる。慶応二年(1867)に前島密徳川慶喜に建白した「漢字御廃止之議」に、すでに「成る可く簡易なる文字文章を用ひさる可からず。(中略)漢字は用ひられす終には日常公私の文に漢字の用を御廃止相成候様にと奉存候」とあるように、当時の日本語が煩瑣であり、一定の改良を加えるべきであるという議論は早い段階から存在した。表記方法に関する議論は、明治期になると非常に活発となり、前島密やその他の仮名専用論者による「かなのくわい」の結成や、ローマ字論者の外山正一・矢田部良吉による羅馬字会の結成、福沢諭吉などによる漢字制限論などが現れた。福沢は「文字之教」の中で、「ムッツカシキ字ヲサヘ用ヒザレバ漢字ノ数ハ二千カ三千ニテ沢山ナル可シ」と記している*1。この三千という数は、文部省が明治六年(1873)に編纂した「新撰字書」に収録された字数が三一六七字であると伝えられている*2ように、漢字制限を行う際に一定の目標値となっていたようである。

ほぼ同じ時期に、日本語の書き言葉についていわゆる「言文一致」が唱えられていた。これは、教科書における談話体の採用や、漢文読み下し調の硬い文体をより平易な文体へと書き改める努力などを背景として起こったもので、明治三四年(1901)に帝国議会で「言文一致の実行に就ての請願」が可決されるなど大きな流れを作った。
こうした運動を背景として、明治三五年(1902)に国語調査委員会が発足する。これは、明治三三年(1900)に帝国議会で可決された「国字国語国文ノ改良ニ関スル建議」をうけてのものであった。この建議の冒頭に「我ガ国、文字言語文章ノ錯雑紛乱不規律不統一ナル、世界其ノ比ヲ見ザル所ナリ」とあるように、当時日本語の「改良」は喫緊の課題として認識されていた。

仮名遣いに関しては、既に明治三三年(1900)の小学校令施行規則において、小学校教育において字音仮名遣いの表音化、漢字制限、仮名字体の統一などの改良方針が示され、実行に移されていた。字音仮名遣いの表音化とは、漢字音を発音通りに書き下し、長音については棒引きを用いる(たとえば、王位は「おーい」となる)もので、「棒引き仮名遣い」と呼ばれることがある。伝統的な字音仮名遣い*3からすると、当時としてはかなり革新的な仮名遣いの改革だった。仮名遣いの表音化については、これを漢字音だけでなく全面的に行うべきであるとの議論もあり、文部省は明治三八年(1905)にその調査を国語調査委員会に諮問している。この表音化に関する議論は賛成・反対の両側の立場からの広範な反応を引き起こし*4、文部省は明治四〇年(1907)に臨時仮名遣調査委員会を設置して調査にあたらせるが、結果的に表音化は頓挫し、歴史的仮名遣いが小学校の段階から用いられることとなった。

このような簡素化への流れとともに、西洋の学問や制度を日本に導入するための語彙の新造と新造語を収録した語彙集の編纂がこの時期には精力的に進められた。高松豊吉らによる「化学語彙」、逓信省通信局による「電信用語集」などは、後者の例である。また、清水卯三郎は明治七年(1874)に、英国の科学書を翻訳した「ものわりのはしご」を出版した。これは、すべてかな文字で記されており、専門語彙もすべて和語に翻訳されている。

*1:福沢 (1873)端書

*2:文化庁 (2006) p.98.

*3:いわゆる旧仮名遣いのうち漢字音を標記するために用いられたもので、上記王位は「わうゐ」と書かれる

*4:と書いているが、実は反対の声の方が大きかった。とりわけ保守的な勢力からの反対が大きく、枢密院などで問題となっている。

日本語の簡約化の歴史

国家生き残り戦略としての日本語リストラ
http://d.hatena.ne.jp/michikaifu/20091031/1257023368

こちらで書かれているエントリと、コメント欄、ブックマークが大変興味深かった。エントリについて言えば、たとえば、『ひらがなによる長音表記はすべて「−」で統一。』とか。実はこれ明治時代に一度試みられて、その後猛反対を受けて撤回されている。なぜそうなったかというと、以下の文章を読んでいただきたい。コメント欄とブックマークが興味深いと思った理由をわかっていただけると思う。少し長いけど。

以下の文章は以前少し日本語の簡約化について調べてたときに、まとめとしてちょっと書いたもので、長いので何回かに分割する。アップするにあたっては注を追加している。参考文献は最終回の末尾に付加する。

最初の記事に

何を書くか迷ってたんけども、ユーザIDの由来でも書いておく。

Cunliffeというのはイギリスの人名で、むりやりカタカナにすると多分「カンリフ」となるんだと思う。cunは、cunningのcunだろうな多分。liffeはtwelveなんかの後部要素と同じ意味だろうか。leaveのというかlifanの過去分詞形だろう。

CunliffeでぐぐるとBarry Cunliffeという考古学者が出てくるけどこの人から頂いたのではなく、Walter Cunliffeという銀行家として活躍し、第一次世界大戦中と大戦後のイギリス経済に大きな貢献をして男爵に叙せられた人からでもなく、Richard John Cunliffeという"Lexicon of the Homeric Dialect"という本を編纂した人からいただいた。

なんでかというとちょっと昔話になるのだが。

暇だった大学時代、指導教官に専門外のことにも興味もった方がいいと言われ、んじゃギリシア語でも勉強してみるかと思ってギリシア語の授業を取り、一年の阿鼻叫喚の末*1、ようやくギリシア語の辞書が引けるようになって*2、ま、これで卒業かなと思っていたら、ギリシア語の先生から「来年はOdysseiaの購読やりますがいかが?」と言われ、面白そうだと思ったのが運の尽き。3月にHomerの時代のギリシア語文法を一通りレクチャーされ*3、読み始める前に必要なので買っておけと言われたのがこの本だった。あるとすごく便利。なにしろ、このギリシア語のこの形はここではこの意味で使われているというのが全部書いてあるので*4、読む上でこれほど役に立つものはない。

で、授業が終わると先生が雑談を仕掛けてくるのであるが、そのときにこの著者についても少し話を聞いた。曰く「彼は銀行家で、多忙な勤務の合間を縫って文献を渉猟し、この本を出版した」。そこから先のことを先生は言わなかったけれども、先生はどんな状況にあっても学問することはできる、ってことを言いたかったのかなと今でも思う。

んで、この人のこともうちょっと知りたいと思うんだけれども、全然インターネット上に情報がない。本にはこの人がグラスゴー大学の法科出て他にもシェークスピアについての辞典をものしてることなどが書いてあるのだけど、生没年とか、上の二人のCunliffe氏と何か関係あるのかとかさっぱりわからない。

というわけで、はてなのID取るときにたまたま目に付いた本とその著者の話であった。

関係ないけど

ID取ってしばらくの間、ブクマしかしてなかったんだけど、あれは癖になる。超危険。暗黒面に落ちそうな気がしたので少し自粛しようかと思った。

*1:岩波全書のギリシア語入門を11月くらいに仕上げてその後購読やると言えばわかる人にはわかるかな

*2:初心者はまず辞書を引くことができない。動詞の変化形が異常に多いので。サンスクリットは更に悲惨な状況のようだが。

*3:Homerは大体紀元前8-9世紀のギリシア語で、日本の大学で習うギリシア語は大体5世紀半ばのアテナイの言葉。3,4世紀経ってれば当然言葉も変わるよね。

*4:もちろん英語だけれども